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2020/12/17)
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渡辺綱と平安貴族
ある夜、殿方が私の屋敷へ訪れた。
私は夫の死と共に実家に戻ってきた身である。幸い、私以外に妻が居たと言う話も無く、言葉にしようがない空虚を抱きながら、喪が完全に開ければ出家しようと考えていた。最愛の夫と死に別れたので出家した、となれば一族への聞こえも悪くない。
かわいそうと言われることはあれど、通いに来る殿方など居ない。しかし、話し相手なら沢山居た。元夫の同僚、友人、その他知人。もう一年以上経つと言うのに、未だに訪ねてくださるおかげで退屈はしていなかった。
「お待たせいたしました。支度にお時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ急な訪問、不躾で申し訳ない」
私は夫の死と共に実家に戻ってきた身である。幸い、私以外に妻が居たと言う話も無く、言葉にしようがない空虚を抱きながら、喪が完全に開ければ出家しようと考えていた。最愛の夫と死に別れたので出家した、となれば一族への聞こえも悪くない。
かわいそうと言われることはあれど、通いに来る殿方など居ない。しかし、話し相手なら沢山居た。元夫の同僚、友人、その他知人。もう一年以上経つと言うのに、未だに訪ねてくださるおかげで退屈はしていなかった。
「お待たせいたしました。支度にお時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ急な訪問、不躾で申し訳ない」
しかし、この男は違う。
彼と夫に接点などなかった。屋敷の家人もみな、男の来訪にうろたえている。私だってそうだ。……まさか、あの渡辺綱様が従者も連れずにおひとりで来られるとは。扇で顔の大半が隠れているため平常心を装っているように見えるが、緊張のあまり背中は汗が幾筋も流れていた。
「貴女の噂を聞き、その足で来てしまいました」
「は、はあ……」
御簾越しでもわかる整ったお顔に、背筋の伸びた姿勢。伏せられた顔は月明りがまつ毛に影を落ちている。噂の通りの美男なのだろう。
そのうえ腕っぷしは強く、命がけの職務を卒無くこなすだけでなく、部下からの信頼も厚いとか。兵のことはよく存じ上げていないが、時折様子を伺いに来られる方々からもよく名前を耳にしていた。
「な、なぜこんな夜更けに?」
私が尋ねると、光を宿さないまっすぐな視線が射貫く。思わず「う」と声が漏れそうになったがなんとかこらえた。この数年、夫の顔ぐらいしか正面から男性を見た記憶がない。貴族とは違う実直な行動は、私だけでなく後ろに控える女房たちさえしどろもどろにしていた。
「どのような方か会って話がしたい、と。思い立ったら足を運ばずには居られなかった」
真一文字に結ばれた薄い唇はそれ以上語ろうとしない。女房たちも心配そうに私を見ているが、どう答えるのが得策なのか全くわからなかった。眉間に皺が寄り、無意識で扇を持つ手に力がこもる。
「申し訳ない。困らせたいわけではなかった」
「いえ、お気になさらず……と言いたいところですが、正直わたくしもどうお答えしていいのかわかりません」
大きく息を吐きだすと、言葉を続けた。
「わたくしは会って話がしたいと思われるほど特出した何かを持っている女ではありませんので……。
それに頼光四天王の筆頭と名高い渡辺様が、わたくしのような未亡人の元へ通っていると噂が広まれば聞こえが悪くなりませんか?」
いっそすがすがしいほどに本音をぶちまけると、背後から焦る声が沸く。私もこれでもし渡辺様がお怒りになられたら……とは思っているのだが、如何せんどうかわせばいいのかわからなかった。かわしたところで、誠実そうなこの方を騙すようで心苦しさがある。いや、騙されてくれるのかさえわからないが。扇の内側で、貴族の化かしあいならもう少しうまくやれただろうな、と自嘲した。
「……」
返事がない。無言が怖すぎる。
なんと言ったか、鬼を斬ったと言う太刀の名は。床に寝そべる獲物に目線を向ける。手をかけてないとは言え、私が無礼で斬り捨て……なんてなったらどうしよう。後ろに控える彼女たちにも迷惑をかけてしまうだろう。
ちらりと扇から顔を出し、御簾越しに美丈夫を覗くと、どうも何か考えこんでいるらしい。真顔で悩む姿に、私は訳がわからずただ首を傾げた。
「梓殿」
「は、はいっ」
「話ができてよかった。有意義な時間だった」
「え……っと。こちらこそ、お目見えできて光栄でした」
「夜分に申し訳なかった。これにて失礼する」
――では、また。
言いたいことだけ伝えると、かの有名な鬼殺しは颯爽と屋敷を去った。あまりの引き際の良さに家人らも出遅れ、見送りをするために慌てて渡辺様の後ろを追いかける始末だ。
家主である私と言えば、最後に落とされた一言の処理に追いつかず、呆けているだけだった。
「ではまたって何」
それからと言うもの、渡辺様はこの屋敷に通われるようになった。
特段話が盛り上がるわけでもなく、ただ二人向かい合って数刻を終えるだけ。当初は女房たちも毎回肝を冷やしていたようだが、今となっては何も間違いが起こらないことにすっかり心を許している。
帰りには必ず手土産を持たせているらしく、綱様から律儀にもお礼を言われた。私としても貰い物の菓子が食べきれないほどあるので、貰い手が居ることはありがたいと伝えると、少し口元が緩んだように見えた。
先日、元夫の同僚から宮中でもっぱらの噂となっている『源氏物語』の写しをいただいた。夫の生前からお世話になっている方で、後日ちゃんと感想と共にお礼の品を用意しておかねば。
朔日は月明りもなく、燭台に灯る小さな火だけが頼りであった。寝むれないので……と読み始めたところ、文字を追いかける目を止めることができなくなった。女房たちからは「そろそろお休みになられては」と言われていたが「あとこの段落を読み終えたら~」と読書を引き延ばしていた。
あと数段で帚木の巻を読み終えると言ったところで、来客の知らせがあった。こんな時間に来る人など、一人しかいない。
「お勤めご苦労様です、綱様」
「かたじけない。今日はまだ休まれていなかったのか?」
「ええ。知人から書物をいただきまして。読み進めているうちに目が冴えておりました」
そうか、と綱様はいつもように淡々と相槌を打たれる。これが彼の個性と言うことは随分前に理解した。
「実を言うと、朔日は苦手なんです」
「……それは俺が聞いてもいい話だろうか?」
「何を今更おっしゃいますやら。
わたくし、月が見えない夜が苦手なんです。だからこうして書物を読んで夜更けを待ったりしているのですが……今日はお話ができそうでほっとしています」
御簾越しの端正な顔が、歪んだように見えた。
「夫が亡くなった日も、友人を亡くした日も、月が見えない夜でした」
月を思い、中庭に目を向けるも暗闇が佇むだけだった。引き込まれそうな黒から視線を逸らし、燭台のともし火を見やると少しだけ安堵した。
「友人の場合は、亡くなったことを聞いた日が朔日だったんですけどね。幼い頃からの友だったので、その日は眠れませんでした」
瞼を伏せ、彼女が亡くなっていたことを知らせる文を受け取った夜に思いを馳せる。
本宅から離れて暮らしていると本人から文で聞いていたが、ある日を境に途絶えたままだった。帝の寵愛を受けるべくして育てられていたはずの友人。なんのとりえも無かった私とは違う、自慢の友人の姿を思い浮かべた。
「つ、綱様?」
突然、隔たりとなっていた御簾が押し上げられる。犯人など目の前にいた男しかいない。静かで凛としていた所作からは想像もできない荒々しい姿と、明瞭に伺える綱様の整ったお顔立ちに目を奪われた。綱様は驚きのあまり動けずにいる私をひょい、と抱えて帳台へと足を進める。
「すまない。俺は狡い男だ」
昼間よりは幾分軽い身なりとは言え、衣だけでも相当な重量がある。それをいともたやすく綱様は持ち上げた。すっかり頭から抜け落ちていたが、やはり目の前の男性は武を司る益荒男なのだ。
「故人の代わりでいい。どうか身をゆだねてくれ」
帳台に降ろされ、綱様が覆いかぶさる。月明りの無い暗闇では綱様がどんな表情をされているのかすらわからない。しかし、此処まで来て何をするかわからないほど初心でも無く、いろんな意味で鼓動は早まる一方だ。
何故私だったのか。
誰を見ているのか。
怖い、と言うより疑問が先に浮かんでいた。
夜目が効くようになり、綱様の顔を見上げる。初めて見る思いつめたような表情に息が詰まった。身じろぐことも出来ず、彼の言葉通り身をゆだねていると小さな声が耳に残る。
「恨むなら俺を恨んでくれ」
なんのことかわからなかったけれど、今この人を拒絶したら駄目だと思った。観念して広い背中に腕を回す。綱様は一瞬体を強張らせたが、すぐに緋袴の結び目に手をかけた。
遠くで女房たちの衣を引きずる音が聞こえる。伸ばした手を大きな手が捕らえると、目の前の男に集中するしかなかった。
きっと私たちの関係は、最初から傷のなめ合いだったんだろう。
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